自分にはむかう者全てを消し去ってしまおうと思った。側に来てくれない神子も、彼女を守る八葉も黒き龍の神子も全て、いなくなってしまえばいい。相手はただの人の子なのだ。神である自分が、まけるはずがない。彼らを消し去り、自由になるのだ。今までのように呪を施され使役されているのではなく、自らの手で人の子を操ってやろう。そのためには、彼らは障害なのである。
 ――もはや迷いはない。立ちふさがる神子を、障害を、己が手でなぎ払うことなど造作もないことだ。彼女の心の蔵に指を当て、神子の動きを止めるだけ。眠るように苦しみもなく逝くこと位は、自分なりの慈悲だ。そう思っていたのに。

「天海!」

 目の前に迫った神子に、天海はついぞ死を与えることが出来なかった。他の存在を教えてくれた神子、己の光とも言える存在。どうしてそれを虐げることが出来ようか。どうやら自分の決心は甘かったようだ。思考の奥底に刻み付けられた神子への思いが、今となって邪魔をする。
 そうして狭間の神は、白き龍の神子の剣を受け入れたのである。
 神子の剣が決定打となり、天海はこの世界で揮えるだけの力を失った。力を失えばここに留まることは出来ない。両手を掲げ手のひらを見れば、次第に肌が薄くなり足元と石畳がぼんやりと透けて見える。体が消えかかっているのだ。体はまるでさらさらと落ちていく砂時計の砂粒となり、端から虚空に消えていく。程なくして、狭間の世界へ戻るのだろう。何もないあの暗闇の中で、また独り。永久に続く己が役目を果たさんがために。
 天海は神子を見つめる。その傍らには、彼女がたった1人思いを寄せた者がいる。固い絆で結ばれた2人。最初はただただ疎ましいだけだった。はやく引き離し、神子を手中におさめようとした。それが何時からか、羨ましく思うようになった。思えば、その時から神子が手に入らないのだと諦めていたのだろう。

「ゆき――笑いなさい。君の望み通りになったのです。私は消える、世界には平穏が訪れる。これ以上何の不満があって、そのような顔をしているのです?」

 眉根を寄せにらむ様な、哀れんでいる様な、悲しむ様な、そんな表情はもう沢山だ。望みの大半が叶うことが出来ぬならば、せめて最後に君の笑顔だけでも見たい。何も知らずにこの世界に降りて来たばかりのころ。夜の神泉苑で蛍狩りをした時に見せてくれた笑顔を。得体の知れぬ自分を信じ、名前を呼んでくれたときのように。神子の笑顔を刻み付ければ元の世界に帰るから。きっと闇の中でも彼女の顔を思い出せば、寂しさもまぎれるだろうから。
 しかし彼の願いは叶わない。もはや神子は己を見てなどいなかったからだ。彼女が見据えているのは、世界を滅ぼさんとする神を倒した先にある未来。大切な人と共に過ごす未来だ。そこに自分の居場所は無い。
 かの者のように神子の傍らに立ちたかった。心を寄せてもらいたかった。彼女の良き理解者としてありたかった。彼女を守る者になりたかった。神子が己にとっての光であったように、彼女を照らす者となりたかった。
 目頭が熱くなり雫がこぼれおちる。これは一体なんだろう。ああ、たしか涙といったか。人が悲嘆した時に流すものだ。そうか。いま自分は悲しいのだ。
 その涙すら地に落ちる前に塵となる。言葉はかき消え、視界は霞む。髪も肌も、身に着けていた装束といったものも全て、あるべき場所へ戻って行く。自身の存在の証を刻むことは許されず、天海が世界に残せるものは何も無かった。


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